20200814 「自由」と「出来ること」の違い
「自由」と「出来ること」の違い
「赤子の手を捩じるよう」ということわざがある。いとも簡単にできてしまうことの例えのようだが。
たしかに赤子の手を捩じることも、赤ちゃんの首を捻り折ることもやろうとすればできることだろう。
しかしそれをこう言うだろうか?
「私には赤ちゃんの首をへし折る自由がある!」と。
やろうと思えば「出来ること」と「自由」はまったく違う。
赤ちゃんの首をへし折る「自由」などどこにも無い。
周庭(アグネス・チョウ)はこう言っている。
「私には香港を混乱させ、中国の国家体制を崩壊させる自由がある!」と。
そんな「自由」などこの世界のどこにも無い。
「好き放題やって、NED(全米民主主義基金)から言われたとおり中国の国家体制を崩壊させる自由を持っている!!」
そんな「自由」や「表現活動」が許される世界などどこにも無い。
このNED(全米民主主義基金)によって国家を転覆させられたウクライナでは市民同士の殺し合い、臓器売買、小児の人身売買が横行し、地獄絵図となった。
もし仮に「自由」が許されるのならば、少なくともその身勝手な「自由」で破壊され、辛酸を舐めた人たちの怒りや怨念をすべて受け止めなければならない。
「自由」には「責任」が伴うことすら知らないジャーナリストや活動家、政治家のみなさん。
猛り狂った「怒り」の矛先が後に正確にあなたたちに向かうことを想像くらいはしたほうがよい。
インターネットの恐ろしさは、特に動画となって発信された場合に二度と修正が効かないところにある。
報道の自由、表現の自由、国を壊す自由、赤ちゃんの首をへし折る自由。一度「自由」という言葉の根本に立ち返ってみるとよい。
必ず「責任」という怪物の中にあるから。
「表現の自由の萎縮」?
まずこの指摘が表現の自由の萎縮にはならない。「自由」の根本を理解したうえでの発言・行動であるなら、それを指摘されたからと「萎縮」するはずがない。
大体にして、「911」「311」の真相や、日航機墜落が空対空ミサイルによる撃墜であったこと、コロナ・パンデミックがビル・ゲ〇ツの謀略であることなどが一切報道されないことのほうがよほどの「表現の自由の萎縮」だろう。
ごまちゃん 2020年8月14日 (金) 21時55分